小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

5 政商 大倉財閥を創った男  若山 三郎(1991)

【あらすじ】

 新発田藩(現在の新潟県北部)で質屋を営む家業の息子に生まれた喜八郎は、頭の回転が早く知識も大人顔負けで、近所でも評判の秀才だった。狭い田舎でのしきたりに不満を持った喜八郎は、江戸に出て商売を学んで独立することを決意する。まず乾物屋に奉公して独立するも、幕末の乱世の中、武器商人の将来性を見込んで改めて奉公し直した後、鉄砲屋として独立する徒手空拳で、横浜の外国商館との仲介をしながらも、当時の武器商人にありがちな粗悪品を売りつけることは決して行わず、信用を重んじたために次第に取引が拡大し、新政府の御用商人の座に納まる。

 早くから欧州に視察に行き見聞を広げ、また岩倉遣欧使節団とも合流し、後の政府の中枢となる大久保利通木戸孝允伊藤博文らと知遇を得て、井上馨山県有朋へと人脈が広がり、政商としての地位を確立していく。台湾出兵西南戦争日清戦争、そして日露戦争と戦争の度に商売の規模を膨らまして「死の商人」と言われながらも、帝国ホテルや建設、土木、商社、保険など一代で「大倉財閥」を築き挙げた。

 

【感想】

 江戸での丁稚奉公次代に、1歳年下の安田善次郎と知り合い、生涯を通じての仲となった。社交的な大倉喜八郎に対して、余計なことはしなかった安田善次郎。周囲は大倉を「陽」として、財界の伊藤博文と見る一方、安田は「陰」で同じく財界の山県有朋と評せられたという。

   大倉喜八郎ウィキペディアより)

 

 頭の回転が早いため、頓知のような川柳を当意即妙に表現して(まるで現代の「整いました」ww)その場を和ませて自分のペースに引きずり込んで、難問と思われることも相手方の譲歩を導いて、かつ相手に負けたと思わせない交渉術で合意していく。反面、相手が政治家や官吏など、身分が上と思われる人物にも憶せずに対峙した上で、大抵は相手を立てて「名を捨て実を取る」が、時には正論もかざして譲れない場面では明確にもの申す。

 幕末。江戸の彰義隊から強引な武器調達を要求されたときは、命の危険を顧みず「現金引き換えでないと商売はできない」と断り、堂々な対応を貫き、しまいには相手を感心させて命の危険から逃れる。五稜郭の戦争が控える中、弘前藩から米で銃を撃って欲しいと頼まれた時は、運試しのつもりで引き受けて自分の全財産を現金化して銃を調達する。銃の運送では武器が足りない榎本武揚率いる旧幕府軍から、米の運搬では食料の調達に難儀していた新政府軍から、それぞれ徴収される危機に遭うも、共に機転を利かして難を逃れる。これらの危機回避術は、覚悟を決めて腹を据えると共に、なかなか当時の日本では広まっていない「ウィット」を効かせた独特の社交術に通じる。この辺は武士出身の人間にはできない。

 またその場では損になる取引になっても、長い目で見れば特になるとの柔軟な考えも持っていた。そのため損をさせた相手を傷つけず、次は利益を与える取引を持ち込もうと思わせる。そのため社会的には業種柄「死の商人」と非難を浴びることも多かったが、直接会う人からは信用されて重宝な存在になる。頼まれても嫌と言えない天性の性格もあり、渋沢栄一のように、財界において利害関係の周旋にも一役買う存在になる。

 本作品を書くことになった動機が、作者若山三郎が同郷で以前から気になっていた存在と語っているためか、大倉の良い面ばかりを描いている印象がある。但し実生活では、38歳まで独身だったにもかかわらず、20歳も年下の娘が馬に颯爽と騎乗している姿を見て一目惚れをして、一途にプロポーズした微笑ましいエピソードも持っている。そして巨大財閥を作り上げる商才も人脈もあったが、財閥の中核と言える銀行は「八方美人になるから」と手を付けなかった

 現在、大倉財閥と言える企業は余り残っていないが、帝国ホテルや息子の喜七郎が設立したホテルオークラ、そして札幌市に寄贈した大倉山ジャンプ競技場など、その性格に相応しい文化的な香りが強いものが現在まで残り、大倉の印象を際だたせるのに役立っている。

   *息子の大倉喜七郎ウィキペディアより)

 

 昭和3年、90歳まで生きた大倉喜八郎だが、その前年まで引退はせずに実業家として、そして趣味人として長い人生を自分の思い通りに生き抜いた。これもまた、天性の性格のなせる業なのだろう。