1 「バブル退治」
バブルによる景気の過熱は、インフレの懸念と共に政府及び日本銀行に対策を迫られる。
1989年4月には日本で始めての消費税がスタートする。日本銀行は「平成の鬼平」(命名者は佐高信)と呼ばれた三重野康総裁が主導して、1989年5月から1年半の間に5回、矢継ぎ早に公定歩合を引き上げて金融引き締めを図る(塩田潮著「金利を動かす男たち」)。但しこれだけでは景気加速に歯止めはかからず、1989年の大納会で、日経ダウ平均は最高値38,915円とピークをつける。
*歴代の日銀総裁を描いたノンフィクションの傑作(Amazon)
2 総量規制
1990年3月に大蔵省銀行局長が通達した「土地関連融資の抑制について」(総量規制)によって局面は変わる。元々株価は1月から徐々に低下傾向になっていたが、本通達で銀行からの不動産融資は制限される。そのため金融機関は貸付先の維持のために、規制対象外だったノンバンクの住宅金融専門会社(住専)や農林系金融機関を利用した迂回融資による貸し出しが進められて、不良債権問題が悪化する要因となった。そして資産価格(株価、地価)が一気に下落した。1990年10月1日には一時20,000円割れと、わずか9か月あまりの間に半値近い水準にまで暴落する。
*小澤一郎と橋本龍太郎
3 住専問題
内閣府の国民経済計算によると日本の土地資産は、バブル末期の1990年末の約2456兆円をピークに、2006年末には約1228兆円とおよそ半減する。「土地神話」が崩壊して、「担保割れ」の融資が大量に生まれる。住専は元々個人の住宅ローン向け金融だったが、銀行が住宅ローンに参入したためバブルを契機にリスクの高い貸し出しに踏み込んだ。また母体行による迂回融資で、貸し出しの審査機能も停止したまま融資実行したものもあり、その大半は担保割れで回収不能となる。7行の内6行が破綻し、多額の融資をしていた母体行を守るため7000億に及ぶ公的資金が注入され、国民の怒りを招いた。(清武英利「トッカイ 不良債権特別回収部」)
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4 金融危機
金融機関はBIS規制、金融ビッグバン対策、時価会計制度の導入により、不良債権の処理が急務となった。いわゆる貸し剥がしと呼ばれる融資の引上げが、優良企業にまで及んだ(高杉良「金融腐蝕列島」、池井戸潤「おれたちバブル入行組」、杉田望「貸し剥がし債権回収」など)。このため中小零細企業だけでなく大企業の倒産も相次ぎ、経済停滞が長引く要因となった。また先の公的資金導入に加え、損失補填、利益供与、巨額損失の隠蔽など金融機関の不祥事が相次いで発覚して世論の批判も厳しくなり、大蔵省も「護送船団方式」を諦め、経営状態の悪い金融機関も破綻・再生する方針に舵を切った。
1995年に兵庫銀行(一時は「イチロー預金」で有名になった)が銀行で戦後初の経営破綻となる。1997年にはアジア通貨危機が加わり、日産生命、山一證券、北海道拓殖銀行(本所次郎「頭取の影武者」・江波戸哲夫「会社葬送」など)、翌1998年には日本長期信用銀行などの名門金融機関の破綻が相次ぎ、大手金融機関同士の合併・統合が進んだ。(真山仁「連鎖破綻」)
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* 86年から98年にかけての日本金融を追いかけた、ノンフィクションの傑作
5 日本的経営の終焉
バブル崩壊後の日本経済は、「リストラ」と称した解雇が「ブーム」となり、終身雇用制度が崩壊、わずか10年前には世界から注目された日本的経営が崩壊する。借金経営に対する批判から、企業の資金調達はこれまでの間接金融から直接金融へと転換し、世界最強と言われた日本の銀行は見る影もなくなる。賃金の抑制による消費の低迷や巨額の財政赤字を原因とした公共事業の低迷から、外需への依存が高まっていった。また、円高不況による製造業の海外移転(特に中国)が相次ぎ、産業空洞化が更に進行することになる(江波戸哲夫「空洞産業」、佐々木譲「屈折率」など)。
(データはウィキペディアから引用しています)