小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

6 大脱走(スピンアウト) (ソフトウェア:1983)

【あらすじ】

 石川島播磨重工業(IHI)でコンピューター一筋に仕事をしてきた碓井優は、ゼロの知識から始めて実力をつけてきた。自社の設計・物流のために開発した情報システムを、社外にも売る外販事業まで目論んでいたが、会社は一転して外販事業からの撤退を決める。しかし事業の意義と将来性を知り抜いていた碓井は、システム部門の面々と共に会社を捨てて企業することを決意し、会社から「集団脱藩」をする計画を水面下で画策し、大企業への戦いを始めた。

 

【感想】

 碓井優は高校球児で甲子園にも出場。プロのスカウトも来るほどの実力だったが、関西大学に入学する。しかし父の事業が失敗したために数日で退学を余儀なくされ、地元の呉造船所に就職。後に石川島播磨重工業に吸収されて同社社員となる。なお高校の先輩には広岡達朗がいて、関西大学野球部にそのまま在籍していたら、1年下に「ミスタータイガーズ」村山実、2年下に名監督の上田利治頭脳明晰で、入学試験の際野球部推薦の「ゲタ」を履かせたら、満点を超えてしまった逸話があるww)が入学していた。

 碓井自身は就職してから真面目に働くが、1963年それまでの資材部から全く無縁の電算(コンピューター)部門、新設された電算化企画室に配属される。当時のコンピューター分野はまさに黎明期で、将来性は全く不透明だった。1968年呉造船所はIHIに吸収合併されて、コンピューター技術者は全員兵庫県の相生工場に集められるが、ここが後の「脱藩劇」の舞台となる。

 IHIの真藤恒とはコンピューター部門に転属した時から因縁があり(呉造船所の非常勤役員もしていた)、度々やり合うようになるが、それがきっかけで親交を深めることになる。真藤は社長就任後は碓井の後ろ盾にもなってコンピューターには理解を示したが、同社先輩の土光敏夫経団連会長から請われ、電電公社の総裁として民営化に尽くすことになる。

  *真藤恒(ダイヤモンドオンラインより)

 

 1981年真藤がIHI社長を退任した後、新しい経営陣はコンピューター部門の方針を一変することになる。ところが当時のコンピューター業界は、販売後のメンテナンスまで必要とされていて、碓井は今まで販売していたコンピューターの保守管理をしていく大義名分もあり、前代未聞の「集団脱走」が始まることになる。

 当時は終身雇用制の真っ只中で、マスコミも騒ぎ出し「赤穂浪士」(相生市は地元)やら「英雄」などと持ち上げられたが、現在から見ると「職業選択の自由」の1現象を思えるほど時代は変わってしまった。それだけ大企業でも「会社は永遠」という神話は崩壊し、大規模なリストラが実施される。派遣や非正規雇用も珍しくなくなり、能力ある者は創業を目指す。企業と労働者の関係は急激に変質していく

 1981年、碓井は79人の脱藩者を引き連れて、社員数を80年代に飛躍する意味も含めて「コスモ・エイティ」を設立する。IHI時代からの顧客であるソニー、JTB、ブリヂストン、農協などのシステム開発を引き継ぎ、新規顧客も開拓した。またNTTのINS実験に参加しニューメディア事業にも進出し、1983年には三菱商事、日本IBMと合弁事業を興すまでに成長する。

 しかし碓井は1990年に会長を退き翌年退社する。1982年には株売買益の巨額の脱税で告発されている。1989年にリクルートコスモス株の譲渡より収賄容疑で逮捕された師匠・真藤恒と同様、晩節を汚してしまった。そしてコスモ・エイティも1993年、セコム情報システムと合併。社名通り80年代を駆け抜け、そして約10年でその歴史に幕を下ろすことになる

 しかし旧コスモ・エイティの社員たちは明るい。困難を賭して1つのことを成し遂げ、「ベンチャービジネス」の先駆者として新たな時代を築いた自負が感じられる。それは、大企業では決して経験できなかったものを得た思いから来る自負であろう

 

   *アマゾンより