小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

東北の夢と球児の夢

1 東北勢が見てきた遙かな夢

 和歌山県出身の竹田利秋が母校國學院大學の先輩から乞われて東北高校のコーチに就任したのが1965年。監督となり1968 年、夏の甲子園に出場するが、東北勢のチームが西日本のチームに完全に呑まれている姿を見て、東北高校を甲子園で勝てる強豪に育てようと決意を固める。

 それから20年、「大魔神佐々木主浩投手を擁しべスト8へ進出したところで東北高校を退職して故郷に戻ろうとするが、時の宮城県知事が「竹田を宮城県から出すな」と号令をかけ、仙台育英学園高へ異動となる。1989年には大越基を擁して決勝まで進むも延長戦で敗れ,悲願は目前で潰え、30年に渡る宮城県での野球人生を終えた。

 山形県代表チームが1985年に桑田・清原選手を擁するPL学園に29対7で敗れ、県議会で「なぜうちの県の代表は弱いのか」と議題にされるほどに。その後県高野連が全国の強豪校を招いて交流試合を行って、県のレベルを底上げするように努力していき、その成果が徐々に実っていく。

 

 

2 東北勢の挑戦の歴史

 「白河の関を超えた」東北勢悲願の甲子園優勝。第一回大会の秋田中学を皮切りに、磐城高校が、三沢高校が、光星学院が、花巻東が、金足農業が、そして東北高校仙台育英が決勝まで到達するも、最後に跳ね返された100年に及ぶ「壁」をついに今回突き破った。

 私は仙台は「にわか市民」だが、両親が東北出身なこともあり、子供の頃から東北勢はずっと応援してきた。当初は1回勝てば喜んだ東北勢だが、次第に勝ち抜き、そして上位に進出するチームも増えてきた。その理由として、冬季の練習環境が施設の充実や温暖化などによって西日本とそれほど差がつかなくなったことや、エリートの野球留学も指摘されている。

 かつては抜きんでた実力を持つ1人のピッチヤーが、決勝まで投げるスタイルが多かった。しかし今回の仙台育英は「総合力」が際立っていた。昨年須江監督が自信を持って作りあげたと自負したチームが県予選の4回戦で敗退してしまった。その反省に立って今回のチームはネジの「緩み」を1度締め直して仕上げた印象がある。

    



3 「日本一競争の厳しい」野球部

 県予選を見た限りでは堅実だが「小粒」と思え、実際に放ったホームランも県予選・甲子園を通じて決勝戦の満塁ホームラン1本のみ。しかも打ったバッターは、県予選ではベンチ入りさえしていなかった選手。ほかにも県予選で1回も投げていないピッチヤーが甲子園で好投を見せたり、控えだった選手が徐々に調子を上げてスタメンに抜擢されたりと、選手たちがいう「日本一厳しい競争」で実力が磨かれ、「日本一から招かれるチームになる」ことを合言葉とした練習でチームが編成され、選手が替わっても1つ1つのプレーの堅実さを失わずに、深紅の大優勝旗へとたどり着いた。

 宮城県高校野球界に大きな足跡を残した竹田監督のあと、佐々木監督を経て今回須江航監督が仙台育英を率いたが、その練習方法の特徴は徹底した可視化。ピッチングやスウィングのス ピード、塁間の到達時間、遠投などの能力を計り、そこからベンチ入りそしてスタメンを選抜していく。情実が入らない皆が納得する平等な選抜方法は、学生時代補欠生活が長かった須江監督の経験が裏付けされている。

 

 

4 「日本一から招かれた」チーム

 だからこそ「あの」優勝スピーチとなったのだろう。「青春って凄い密」と前置きし、「どこかで止まってしまうような苦しいなかで、本当に諦めないでやってくれた。(中略)大阪桐蔭さんとか目標になるチームがあった中で走っていけた。本当にすべての高校生の努力の賜物で、ただただ僕たちが最後にここに立ったというだけなので、ぜひ全国の高校生に拍手してもらえたらなと思います」と語り、3年間、中学卒業の時からコロナで学生生活が制約された高校生に対しての感謝とねぎらいの言葉となった。

 仙台育英高校は、他のチームが戦いを重ねる内に消耗していく中、唯一力を蓄えたまま終盤の戦いに臨むことができた。また応援団も、決勝でGReeeeNの「キセキ」を急遮応援歌に加え、準決勝で戦った福島代表の思いを継いだ。優勝したからと言って「最強」のチームとは断言できないが、監督、選手、そして応援団も含めて、間違いなく東北だけでなく全国を「代表」するチームだった。

 仙台育英高校野球部のみなさん,そしてコロナ禍で制約を受けながら3年間練習に励んだ全国高校球児のみなさん、「特別な」3年間お疲れ様でした。そして本当にありがとうございました。 

      サンケイスポーツ