小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

8 臨3311に乗れ 城山 三郎 (1980)

【あらすじ】

 戦後の荒廃と混乱の中で宮仕えにむかず、資力もバックも信用もない中で、旅行代理店に活路を見いだす主人公、馬場勇。先見性と創意工夫、そして野武士的な実行力を武器に、新しい世界に切り込んで行く。幾多の試練に見舞われながらも、持ち前の精神力と仲間を巻き込むエネルギーで克服し、ついに日本有数の旅行会社にまで発展させる実録企業小説。

 

【感想】

 初読は学生の時で、「何と暑苦しい」小説かと思ったもの。主人公のエネルギーは周囲を圧倒し、会社の社員をどんどんと引っ張っていく。社会人になる前の私は、これではとても社会に出ても物にはならないと思い、またこんなことは戦後の混乱期にあった一風景に過ぎない、と片付けたくなったもの。言葉は悪いが、今で言うブラック企業のような印象をもった。但し社長と社員の絆は、恐ろしく強い。

 主人公の馬場勇は朝鮮半島で生まれ、東大卒業後は朝鮮銀行に就職。敗戦後日本に引き揚げ金融機関に就職するも、宮仕えに合わず1年で退職する。そして旅行代理店を1948年に開業するが、その動機は以下。

 ①前金が入り資金の心配がない。

 ②設備も原材料もいらない。

 ③修学旅行を扱えば不景気の影響は受けない。

 ④もともと旅行が好き。

 開業の動機は、昔も今も代わり映えがしない(笑)。

 修学旅行の団体獲得のために学校を回るが、当初は全く相手にされない。そのため出身校や知人から紹介された学校を回り、少しずつ契約が取れるようになる。交通と宿泊の手配をして搭乗までこなし、手数料を払わない旅館からは回収もしなければならない。使えるものは猫の手でも、と馬場の妻にも営業や搭乗をやらせる一方、信用を得るために国鉄に陳情するなどをして、知恵を絞り努力を惜しまない。更に当時の列車の劣悪さに着目し、車両不足を承知の上で、国鉄に修学旅行専用列車を走らせるよう何度も陳情し、ついには専用の臨時列車「臨3311」の運行にこぎつける。

  

 

 本作品の題名は、馬場が設立した会社「日本ツーリスト」に就職面接をした若者が、就職の意向を示すと有無を言わさず命じられた言葉。馬場社長の強引な性格と野武士的な会社の方針、そして「臨3311」に象徴される創意工夫と努力の全てが込められた、本作品に流れるエネルギーを象徴した言葉。例えば1980年代のホンダでも、技術者が突然上司から「F1の現場に行け」と命じられて、チケットの手配や段取りを確認すると「自分でやれ」と言われたという「伝説」を思い出す。高度成長期は、多かれ少なかれ薄氷を踏む思いで何とかやりくりしながら会社を回してきたもの(それは現在でもあてはまる)。

 がむしゃらに事業拡大に突き進める馬場。そんな強引な経営のため、資金繰りに行き詰まってしまう時に、知人から近畿日本鉄道の社長で財界の大物、佐伯勇に紹介される。佐伯も観光事業には将来を感じていていたので馬場は佐伯を「巻き込んで」経営の協力を約束させ、1955年馬場の「日本ツーリスト」と近鉄の子会社「近畿日本航空観光」が合併して「近畿日本ツーリスト」が誕生する。但し合併後も馬場は専務として拡大路線を曲げずに赤字が続き、佐伯から叱責を受けるが、その方針は変わらない。

 馬場のやり方は高度成長期という時代も後押ししてくれたが、「イケイケどんどん」のやり方は危ういものが往々にしてあり、そのやり方で失敗した経営者も数多い。但し創意工夫と努力、そして親鸞没後600回忌法要をあて込むために改宗までした執念は他の真似を許さない。途中病気で倒れても経営の情熱は衰えず、1973年、現職のまま「討ち死」する。享年63歳。

 戦後経営者の1つの典型、但しそれだけでは片付けられない魅力が、そこにはある。

 

  

 集英社の「販促」で使われた馬場勇の写真。