![新装版 虚無への供物(上)【電子書籍】[ 中井英夫 ] 新装版 虚無への供物(上)【電子書籍】[ 中井英夫 ]](https://thumbnail.image.rakuten.co.jp/@0_mall/rakutenkobo-ebooks/cabinet/8943/2000000168943.jpg?_ex=128x128)
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【あらすじ】
氷沼家を舞台にした連続殺人事件。ところが登場人物はミステリーマニアの集まりで、事件が起きる前から事件の真相を解明するという人物もいる始末。事件は全部で4つ(内1つは作中作)、いずれも密室内で見つかり、そして事件に対して各々(おのおの)が好き勝手に推理を行う。例えば事件は五色不動になぞっているとか、仏教や植物学、色彩学、遺伝子学、色彩学、SM、シャンソンなど様々な分野の専門知識を駆使する。被害者や遺族の悲しみを全く無視して推理合戦は続く。
暴かれる事件の真相は皆の推理と一致するのか、そしてこれらの事件に共通する、真の犯人は誰か。
【感想】
私は密室(とアリバイ)トリックが苦手なので、本作品で警察は「密室のトリックを解明する努力は効率的でない」と言っているが、全くその通りで拍手喝采。よほどの理由がないと、余り意味がないと思っている。とは言え「殺人事件は1つじゃ盛り上がらないよね~」とか「やっぱ見立て殺人は映えるね!」とか、物騒なことを言っている私も、50歩100歩。
初読は中学生の時。ます五色不動を五行に組み合わせる「趣向」に嵌まった。なんと素晴らしい趣向かと思い、地図を広げて確認したもの(メフィスト賞作家で似たようなテーマのシリーズがありますね(^^) 大好物です)。他にも興味深い推理の披露があり、感心しながら読んだもの。ところがこれらの伏線のほとんどが回収「されない」。最初は意味がわからず、読み方が足りなかったのかと反省したほど。これぞ「ドグラ・マグラ」、「黒死館殺人事件」と並ぶ3大奇書の1つ、簡単には読者を寄せ付けない(「黒死館」は衒学趣味(ペダントリー)についていけず今回「ギブ」しました)。
新本格派ムーブメントを作りあげた「伝説の編集者」宇山日出臣が、本作品を文庫化したい思いで、三井物産を退社してまで講談社に再就職し、のちに輩出された新本格派の作家たちが何かしらの影響を受けた作品。深淵な知識に裏付けされた見事な推理も、事件と関係ない筋だと、警察捜査では全く意味がない。では虚構(フィクション)の中ではどうなのか。最初は全く歯が立たなかった本作品だが、再読して少しずつ思い浮かぶものがでてきた。
*1954年に発生した洞爺丸事故を契機に本作品が書かれた。
1つは、大したことのない事件を、登場人物たちが「妄想」してとてつもない犯罪と思いこむ展開。被害者や遺族の悲しみをまるで顧みず、事件や人間をただの物体のように扱う「不謹慎な」ミステリー小説というジャンルを非難しているように思える。
もう1つは犯人の言葉。「自分さえ安全地帯にいて、見物の側に廻ることが出来たら、どんなに痛ましい光景でも喜んで眺めようという、それがお化けの正体なんだ。おれには、何という凄まじい虚無だろうとしか思えない」。これは(私のような)ミステリー読者に対する強烈なアンチテーゼである。
ネット社会の現代になると「見物の側」のシステムは当時よりも巨大で安全となり、「どんなに痛ましい光景でも喜んで眺め」そして参加さえできるようにさえ成長した。作者が本作品で指摘した問題は、現在も更に成長した形で存在している。
しかし、例え青函連絡船で痛ましい事故が起きても、震災やコロナで多くの人が犠牲になっても、人間はその内心はともかく、日常の生活を繰り返さなければならない。そして人類は想像力を持って社会(コミュニティ)を作り、文明を打ち立て、文字を発明し物語を創作して、進化を続けて現在に至っている。それが故に虚構(フィクション)を否定することはできないと私は考える。「私は人間であることをやめない!」(漫画「沈黙の艦隊」に登場する大滝淳議員の言葉)。
そんな「凄まじい虚無」に対しての「供物」。アンチ・ミステリーの代表を言われる本作品だが、廻り回って人々が「凄まじい虚無」という現実を生きるための「指針」のようにも思える。
(書き始めたら、当初思っていたことから、どんどん離れていってしまった。これもアンチ・ミステリーのパワーなのか?)