はてなインターネット文学賞「わたしとインターネット」
序 はじめに
改めまして「はてなブログ」様、20周年の「成人式」を迎えて、おめでたい限りです。ちょうど21世紀に合せて開幕したブログ文化。私が直接「はてなブログ」に関与したのはここ4ヶ月ほどのことですが、それまでにもインターネットで検索などを行う中で、無意識の内にもこれまで何度もお世話になったかと思います。
そんな中で今回「インターネット文学大賞」を応募しているのを見ましたが、気になったのが「わたしとインターネット」というテーマに「テキスト(=文章・文献、と本稿では定義します)文化に関するもの」と付け加えている点でした。ブログを運営する立場から見ると、昨今の YouTube や Twitter、そしてインスタグラムなど、より簡易に情報を発信できるSNSが興隆しているところは気になることでしょう。そこで今回は「テキスト文化」に重きを置いて、このテーマに参加させて頂きます。
1 テキスト文化との出会い
平成最初の日にパソコン通信を開通させて、「テキスト文書」が次々と画面に現われた時の感動は忘れられません。昭和の時代は自分の文章が活字になる経験はほとんどなく、フォントで表わされた文章も自分でワープロを打ち込むしかありませんでした。
それからパソコン通信はインターネットに取って代わりました。インターネットの開始当初は1枚の画像を受信するのに1時間くらいの時間を要したこともあり、主に文章の伝達手段でした。次第に通信技術とパソコン技術の発展で、画像も瞬時に受信できるようになり、画像や動画を主体としたSNSが興隆することで、ブログの将来性について危惧する意見もちらほら見られるようになりました。
但しこれは過去の歴史の中で「いつか来た道」。戦後マンガが広がり、テレビが全盛を迎えて、そのたびに活字文化の危機が叫ばれました。確かに活字産業はピークに比べて減少しましたが、これは「棲み分け」であって「衰退」ではないと私は考えます。
画像や動画を使ったインターネットによる発信は世界共通語であり、視聴者に分かり易い点は否定できません。但し「テキスト」という文字文化は、画像にはない伝達能力があります。
2 テキストの利点
第1に、正確な情報やデータの伝達。これは画像よりも優れている面が多くあります。
第2に、自分の心の中の思いや感情など、目に見えないものを伝える手段。まさに「日常」や「書評」などの感想を伝える手段として「テキスト」は欠かせません。
第3に、書くことは残すこと。その「書く」作業は、書き手が何かを残したい、そして相手に伝えたい欲求を簡便に、そしてより自分の心情に近い形で残すことができます。これをインターネットでは、多くの人に、即時性を持って行うことができます。これは太古からの人間の欲求に繋がるものだと思います。
そして1番大きいと思うのが、読み手の問題。「読む」ことは、読み手の想像力を刺激して、広げることだと思います。画像や動画は分かり易い反面、見て終りになるケースが往々にしてあります。ところが「読む」行為は、書かれている場面や心の内面などを、時には無意識のうちに想像力を働かせて、文章の意図と背景を探ることになります。
その過程を経ることで、読むことがそのまま自己の得がたい「体験」になる場合があります。書き手が感じたことを読むことで、書き手の感じた「喜怒哀楽」を追体験することができます。その上、自分の想像力を発揮することで、書き手の経験が自分の経験として「アップデート」されることも多々生れます。
画像や音声とは違い、文章は「自分のペースで」何度でも読み直して確認することができます。そして読むときの心理状態、経験の有無などで、同じ文章でも違った「経験」を味わうこともあります。
3 テキストでしか得られない「感動」
例えば先の投稿で取り上げた書評「終りなき夜に生れつく」を始めとする、アガサ・クリスティーの作品群。クリスティーは10代の頃は読んでもなかなか入り込めなかった作家でしたが、人生経験と読書経験を重ねてから読むと、初読と全く違う印象を受けました。これらの作品は活字によって、読み手が自分の経験から生れる想像力が刺激され、読む行為のはずが、物語を五感で「体験」することに変わる、究極の小説の1つです。
例えば村上春樹の作品群。読み手によって様々な解釈が可能となっていて、その結果1つの小説でも、読み手に合せて様々な「作品」が生れることになります。このようなことは画像ではなかなか有り得ない現象だと思います。場面の情景を想像しつつ、登場人物の心の内が効果的に語られ、それが自己の経験と「化学反応」を及ぼして、読み手独自の新たな、そして強烈な「経験」を与えてくれます。そしてそれはクリスティーや村上春樹だけでなく、読み手それぞれに、このような「経験」を与えてくれる作品が存在するはずです。
クリスティーや村上春樹は特別な例ですが、皆様のブログを読んでいると様々な想像が湧き上がり、そして「疑似体験」をしている気分になるときもあります。このような経験を得られることは、私にとってインターネットを利用した「ブログ」文化から得られる、1つの「桃源郷」であるとさえ思っています。
4 テキスト文化の将来
はるか4~5000年ほど昔、エジプトの象形文字やメソポタミアの楔形文字から始まった「文字によって情報を記憶する文化」は、人類のDNAに刷り込まれています。当然文字が苦手な人はいるでしょうが、反対に画像が苦手な人もいます。以前に比べブログが「万人向け」でないのは(そして、副収入源としての優位性が、他のSNSに対して失われつつあるのは)否定できませんが、テキストに相応しい伝達内容を、テキストを扱うことに相応しい発信者や受信者が利用し続けることは、将来も変わらないでしょう。そしてテキストを保存するツールとして、粘土や木簡、パピルスから発展していって、新たに「インターネットテキスト」が加わることになりました。
想像力という、人間にとってとても大切な余地を残した「テキスト文化」は、人が成長していくために、言い換えれば「人が人であるために」必要であり、そして将来に残していかなくてはならない文化だと、固く信じます。