小説を 勝手にくくって 20選!

ジャンルで分けた20選の感想をつづります。

       書評を中心に、時たま日常を語り社会問題に意見します。ネタばれは極力気をつけます。        

12-1 虎の城(藤堂高虎)① 火坂 雅志 (2004)

【あらすじ】

 浅井長政に仕えていた藤堂与吉高虎は、姉川の戦いに15歳で初陣を飾ると共に武功を立てて名を高めるが、勢いで同僚を切り捨てたために浅井家から遁走してしまう。浅井家が滅亡したあとは旧臣の阿閉貞征、次いで同じく旧臣の磯野員昌に80石で仕えた。磯野家は信長の意向で甥の津田信澄が代わりに家督を継ぐが、信澄は短気で将の器に足りず、高虎は母衣衆に抜擢されるも加恩がないため、また出奔してしまう。

 

 汲々としている中、「算盤侍」と周囲から揶揄されている羽柴秀長から声がかかり、高虎を300石で召し抱えるという。槍働きではない仕事の重要性を説く秀長は、高虎を安土城に連れて、穴太衆による石普請の監督をさせる。ところが秀長の時は真面目な石工たちが、高虎に代わると仕事を進めない。石を砕くこともできない高虎を石工たちは軽く見ていたが、高虎は10日間籠もり石の目を見つけ、槍の一突きで見事大石を砕き、石工たちを心服させることに成功した。

 

 やがて秀吉は播州攻めを命じられる。秀長たちは秀吉とは別部隊で但馬の攻略に赴くと、高虎が明延の銅山から新たな鉱脈を見つけて、赤銅を産出させた。秀長のために頑張った高虎だが、生み出した利益は結局は秀吉が吸い上げていく。また但馬攻略も完成間近となったところで、秀吉から三木城攻めで兵を引き返すよう命が下る。秀長の功がことごとく奪われて高虎は不満を隠さないが、秀長は全く意に返さない。高虎は但馬攻めで、名門一色家ゆかりの久姫と出会い結婚、しかし婚礼初夜の翌朝を待って、秀長から無情の出陣命令が来る。

 

 出陣命令は因幡国。なぜか因幡の米を買い占めろと命令が下る。鉱山の上がりなども駆使して買い占める高虎だが、それでも資金繰りは厳しくなる。秀長に窮状を訴えるが、鳥取の蔵役人が米の高値に欲が釣られ、城内の米を高値で売りに来た。その機を見て鳥取城を包囲して兵糧攻めにかかる秀吉軍は、効果的に城攻めの成果を得ることができた。

 

 続いて行なわれた高松城の水攻めでは、秀長の「土木技術」を見せつけられて、高虎は土木の重要性を認識する。秀吉が天下人に駆け上ると、弟の秀長は紀州を治めることになり、高虎は秀長に願い出て築城に取り掛かる。石垣積の穴太衆に加え大工を従えると、自分の考えも自然と湧き上がり、築城の才能に目覚めていく。

 

  藤堂高虎ウィキペディアより)

 

 ところが秀長に兄の秀吉から、過酷な命令が下される。秀吉の命で秀長の養子とした丹羽長秀の三男仙丸を廃嫡し、甥の秀保を嫡子にせよと言うのだ。秀長は高虎を使者として秀吉に断りを入れるが、側近の石田三成は、秀吉を頂点とする秩序は弟であっても逆らうことはできないと、にべもない回答。やむなく高虎は仙丸を自分の養子にして秀吉の意向を受け入れる。

 

 高虎に槍仕事だけでなく多くのものを教え、武将として育ててくれた秀長が秀吉より先に亡くなってしまう。高虎は養子の秀保を支え、家を残そうとするが、秀吉に秀頼が生れたことで暗雲が漂う。高虎が騙されて城を空けた時に、秀保は連れ去られて崖から突き落とされていた

 

【感想】

 主君を8回替えたと言われ、一昔前は忠誠心がないと誹られるも、時代が替わると自分の腕を武器に転職を繰り返して、ステップアップした「エリートビジネスマン」とも見られた藤堂高虎。身長は190㎝あったと言われ、当時としては驚くほどの体格を生かして武勇を誇っていたが、亡くなった時に近習が遺骸を見ると、満身創痍で手足の指も何本かないことに驚いたという。

 そんな藤堂高虎だが、若い日は武功一本槍。戦場では誰よりも活躍するが、主君ともぶつかって出奔する一直線の男として描かれている。物語の冒頭で、浅井の流れを汲む美秋の御方への想いから、落城寸前の小谷城に入り助けだそうという挿話は、その象徴と捉えておく。但しそんな純情な男が、後に自分の子を生んだ側室を、正室を慮るために遠ざけてしまう男に変貌し、捨てられた女は、なぜか石田三成の側室になる。どうも火坂雅志は「天地人」と同様に、女性の設定には無理を感じることが多い。

 

藤堂高虎の運命を変えた「理想的な上司」豊臣秀長の物語です。

 

 だが、恩人とも言える羽柴秀長との出会いで人生が変わっていく。「算盤侍」と言われ、功は全て兄秀吉に譲ってしまい、歯がゆいばかり。高虎も最初から秀吉に仕えていれば、もっと早く出世できただろうと思うが、そこは人間万事塞翁が馬。遠回りと思える下働きの数々が、人間の情を知り、人を動かす要諦を掴み、そして武功だけでない様々な仕事ができるようになっていく。

 石積みを知り、鉱山の発掘を知り、米の買い占めを担当し、そして大工の苦労を知る。そんな人間の機微を教え、そして育ててくれた豊臣秀長だが、兄の秀吉は天下人になると、「無償の愛」を尽くしたにもかかわらず、我が子可愛さで弟も甥も邪魔になってしまう。

 秀長が、兄秀吉へ尽くしてきた姿を昔から見てきた高虎。秀長の養子を「変死」に追い込み、領地を改易してしまう豊臣秀吉と、その側近で同郷の石田三成への怒りは募るばかりで、その復讐を誓う

 

*石垣作りの専門職「穴太衆」を描いた傑作です。

 

 よろしければ、一押しを m(_ _)m

 

11 名君の門(森忠政) 皆木 和義(2005)

【あらすじ】

 六男の千丸が生まれた年に父と長男が亡くなり、次男の長可家督を継いだ名門の森家。三男の蘭丸、四男坊丸、五男力丸の3人は織田信長の近習として仕えていた。千丸が12歳の時信長にお目見えするが、御前でも先輩の悪戯を許さない峻厳な性格から、信長は千丸を小姓ではなく武将向きとして実家に返される。

 

 しかし本能寺の変が起き、三男の蘭丸以下三人の兄は、信長と共に命を落とす。その時当主の長可は、新領地の信濃川中島に出向いて留守。明智勢が迫る中、森家と誼のある甲賀流忍者、伴惟安の手引きによって母の妙向尼と共に匿われ、命を長らえることができた。

 

 明智光秀羽柴秀吉が討ち破り、当主の長可も、反乱が頻発する信濃から何とか脱出できた。今後、森家は信長死後の行く末を定めなくてはならない。隣接する美濃の織田信孝から人質を求められるが、秀吉と対決が予想されていたため、人質は命の危険があった。しかし千丸はお家のためにと、自ら進んで人質を受け入れた。案の定、間もなく秀吉からの勧誘があり、秀吉に与する意見が大勢を占める。人質の千丸は忍者伴惟安らの活躍で美濃岐阜城から救い出され、またも窮地から命を救われた。

 

 見込み通りに羽柴秀吉が天下人への道を歩み、森長可も秀吉配下の重臣として大大名への道が開かれていたかに見えたが、長可は小牧長久手の戦いで戦死してしまう。その時長可は、幼い弟の千丸は秀吉の近習とし、領地は有力武将に譲る遺書を残していた。しかし秀吉は、戦死した功労者の領地を没収することはできず、14歳の千丸こと忠政に家督を譲ることを認めた。

 

 翌年、富山の佐々成政征伐で忠政は初陣を飾る。軍勢の中には小牧長久手の戦いで同じく父を亡くした池田輝政や、昔から兄と慕う細川忠興もいて、2人から学ぶことで武将とは何かを吸収していく。同時に「人たらし」のオ能を見せつける秀吉に心服していく。秀吉と対立していた徳川家康が上洛する日、何か起きると身構えていると、秀吉が単身家康の元に向かっている。

 

  森忠政ラジオ関西

 

 危険を感じて警護に当たるが、秀吉は忠政を遠ざけると、家康と1対1で対面して工作をする。翌日、諸大名の前で家康に平身低頭させる「芝居」を見せるのには舌を巻いた。その影響か、小田原の北条征伐では、籠城する北条氏に大きな城を建てて町を作り大騒ぎをして、敵を心理的に追い詰める作戦を提言して秀吉を喜ばせる。

 

 秀吉薨去後は、兄事する池田輝政細川忠興に従い家康側に近づき、亡き兄の長可が領主を務めた信濃川中島13万7千石への転封が認められた。関ケ原の戦いでは真田昌幸を抑えるために領地に残り、そのため加増の恩賞はなかったが、その後小早川秀秋の死による改易がなされると、美作国18万6千石に加増転封が決まる。旧小早川家や旧宇喜多家の家臣が不穏な動きを見せる中、無事国入りを果たし、津山城を13年かけて完成させて、美作国を支配した。

 

【感想】

 

 源氏の頭領、八幡太郎義家の流れを汲む森氏。織田家でも忠誠を励み、一族は信長の側で次々と命を落としていく。本ブログでも次兄「戦国の鬼長可、三男の「乱丸」の作品を取り上げた関係もあり、末弟の忠政の作品も揃えたくなったもの。そんな主人公の本のタイトルが 「名君の門」とは象徴的。そして一向門徒で信長に抵抗を見せて乱丸を困らせた母妙向尼も、本作品では目立たないながらも顔を出している。

 

*三男の森蘭(乱)丸は信長編で取り上げ、本能寺の変で四男、五男とともに10代で命を散らしました。

 

 信長から、小姓より武将向きと判断された忠政。亡兄長可が領主となった信濃川中島に18年後に移封となり、そこで本能寺の際に兄を裏切った者を見つけ出して礫とするなど、年月を超えた激しい復讐を行なっている。また同地で検地を厳しく行なった結果増税となり、領民からは怨嗟の声が湧き起きるが、家臣が諫めるも聞く耳を持たず、ひいには国全体で一揆が勃発するまで発展する。それでも忠政は断固たる態度を示し、一揆勢に対しては容赦ない処罰を大量に加えた。この辺は「鬼武蔵」次兄の長可と同じ「武将の血」が流れている。

 翌年美作国に加増転封となったのは、家康がやりすぎと思ったのか、それとも信濃川中島の後釜が家康の子松平忠輝なので、その前の「地ならし」としての使命があったのかもしれない。その後隣国の改易もあり、出雲・石見・隠岐の3ケ国への加増転封の話が浮上したが、忠政が亡くなったために立ち消えとなった。

 森忠政は織田→豊臣→徳川の流れをサラリと渡り歩いたように見える。一応徳川方の池田輝政細川忠興との関連を触れているが、本作品では忠政と秀吉との深い交流が描かれているため、不自然な感は否めない。実際に石田三成が自ら信濃川中島に起き、森忠政に大坂方への参陣を求めたが、忠政は豊臣家批判を繰り広げて破談となっている。その態度に三成は「忠政との遺恨格別」と述べたほど、忠政に恨みを抱いた。

 

*次兄の森長可は秀吉編で取り上げ、小牧長久手の戦いで死去

 

 長兄可隆19歳、次兄長可27歳、三兄乱丸18歳、四兄坊丸17歳、五兄力丸15歳。兄たちが戦乱の中で短い命を終えた後で、織田・豊臣・徳川の三代を生き抜いた森忠政。しかし忠政の子は全て早世し、養子を貰うことで嫡流は途絶えた。その養子も後継に恵まれず、他家に出していた子を戻して後継としたが、その子が乱心したため、津山藩森家は改易となった。但し忠政が懇意にした池田家や細川家などの取り成しもあり、幕府は新たに2万石を与え森家は残され、明治まで続いていく。

 

 よろしければ、一押しを m(_ _)m

 

10 生きて候(本多政重) 安部 龍太郎(2002)

【あらすじ】

 後に徳川家康の参謀として活躍する本多正信の次男として生まれた本多政重だが、生まれた頃父正信は、徳川家から出奔して加賀一向一揆衆に紛れ込んでいた。信長の一向衆への攻撃が迫り、母は門徒として殉死するが、正信は母の願いで子の政重を連れて逃げ、徳川家中で武勇を誇る倉橋長右衛門の養子となった。義父の影響で政重は83㎝もある大身槍を使う武勇の士に育ち、本多正信を愚弄する武闘派の本多忠勝榊原康政からも、一目置かれる存在になった。

 

 ある日親友が徳川秀忠の寵臣と争い、喧嘩両成敗の所を兄の本多正純が不公平な扱いをしたことに腹を立て、一暴れしたあと徳川家から出奔してしまう。そこを前田利家から誘われ、朝鮮出兵視察の依頼を受ける。利家の次男前田利政に槍の指南をしていた政重は、利家の娘の豪姫への恋慕もあり、利家の依頼を断れない。

 

 悍馬大黒を連れて朝鮮へと赴くと、そこは一向門徒が信長に「撫で斬り」にされた地獄図の再現だった。政重はまだ子供ながら、勇士の政重に憧れる竹蔵を従者として戦場を視察する。司令官を務める宇喜多秀家は秀吉の意向を汲みながらも、戦争をどのように収めるかを苦慮していた。その誠実な姿勢と将器を感じる性格に、政重は感銘を受ける。政重は帰国して利家に報告するも、頼みの利家は秀吉から疎んじられて意見は届かず、戦争は秀吉の死でようやく終止符を打つ。

 

  *本多政重(ウィキペディアより)

 

 兄の本多正純からは、徳川家への帰参を誘われるが、政重はかつて活気に溢れていた徳川家中が、今は重苦しい空気が流れているのを感じていた。その原因は本多親子。正純の誘いは、対立する武闘派から受けの良い政重を、味方に引き入れる魂胆。折しも以前出奔した政重の親友の裁判も行われたが、政重は正純の思惑を打ち破ってしまい、その勢いで「正式に」致仕してしまう。

 

 政重が浪人になったと聞いて、朝鮮での政重の活躍を知る武将からは高禄での誘いが後を絶たないが、政重の意向は宇喜多秀家ただ1人。そして心の底に沈めた豪姫は秀家の室となっていた。ところが兄の正純は宇喜多家に内紛を招き、力を削ごうと暗躍していた。政重はその動きを察知して対抗するが、反面石田三成が家康暗殺を企んでいるのを知ると、徳川家に危険を知らせる心情もみせる。

 

 関ケ原では自慢の槍で獅子奮迅の大暴れ。しかし小早川秀秋の返り忠もあり、西軍は敗れ、政重は家来もなく、竹蔵とも別れ1人で退路を開く。そして宇喜多秀家も数少ない人数で逃亡し、最後は薩摩の島津家に頼った。政重は島津義弘に、朝鮮からの帰路に不足する船を手配した恩がある。島津家も秀家を匿うが、幕府の追及は激しく、ついには秀家を引き渡さざるを得なくなる。その途中、政重は秀家と豪姫の対面の場を密かに設けて、最後の忠義を成し遂げる。

 

 

【感想】

 作者の安部龍太郎が金沢の加賀本多博物館で見て触発された、刀身が83㎝もある大身槍。実は私も見たことがあり、異様な大きさに驚いた記憶がある。その使い手が「謀略の臣」本多正信の息子と知って、違和感が強く湧いたもの。調べてみると父や兄と違い「武辺者」のようであるが、それでも徳川家の中枢にいる正信の息子が、福島家、宇喜多家、上杉家、そして加賀前田家と「敢えて」徳川の外様藩を渡り歩く姿は、否が応でも世評名高い「堂々たる隠密」の役割を想像してしまう。

 物語は兄本多正純を悪者にして、「一夢庵風流記」の前田慶次の活躍をなぞるような戦国絵巻。槍一本で戦国の世を渡り歩き、義理人情に加えて豪姫へのほのかな想いも匂わせる。一方で愛馬の大黒まで加藤清正の愛馬有明と戦わせ、抜け目なく桜雪と名乗る牝馬との濃厚なラブシーン(?)を見せるのは、それこそ「傾奇者」前田慶次の愛馬、松風の挿話を思い出させる。

 

  宇喜多秀家ウィキペディアより)

 

 関ヶ原の活躍振りは、家康本陣の眼前まで迫り、家康から「あれは安房守(正信)の伜ではないか」と呆れさせる始末。政重の従者だった竹蔵が実は宮本武蔵で、関ケ原では宇喜多家の与力だった武蔵の挿話を絡ませるなど「冒険活劇」としてはお腹一杯になっている。

 政重はその後上杉家でも名高い名将、直江兼続に招かれて養子となる。前田慶次をなぞる生き様を見せた政重が、慶次と同じように直江兼続に吸い寄せられている。但し直江兼続は徳川家と関係が深い政重を招いて、大減封を招いた自身の立場を強化する目論みがあった。その後かつての主君だった宇喜多秀家が徳川に捕まって八丈島に流刑となり、実家に戻った豪姫とともに、加賀前田家に3万石で招かれた。

 では実際の本多政重は本当に「堂々たる隠密」だったのか。徳川家に敵対する家臣を渡り歩くのは不自然そのもの。しかし上杉家や前田家では、外様に吹き荒れた減封の危機を、直接本多正信など幕府中枢に訴えて回避し、「武断政策」を進めていた幕府の方針とは、反した行動をとっている。

 そして上杉家から前田家に移る時は、直江家などの家臣を多く引き連れ、大減封で厳しい財政の上杉家を助ける行動をしている。これも本来の幕府の意向、特に兄正純は苦虫を噛み潰すような「余計な行動」だったはず。

 こう考えると、家康に叛いた経歴を持つ父に似て、反骨精神を持ち合わせた「傾奇者」だったのだろう。

 

*この作品では政重の子政長も、前田家筆頭家老「堂々たる隠密」として活躍します。

 

 よろしければ、一押しを m(_ _)m